質問 : ”涼宮ハルヒの憂鬱”のジョンの評価は?
以前のコラムで、あなたは”涼宮ハルヒの憂鬱”が大ヒットしていると言及しました。そして、確かにアマゾンドットコムの日本サイトでは、そのエンディングテーマがCDシングル売上げ1位として登場しました。
TVアニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」ED主題歌 ハレ晴レユカイ

しかしながら、あなたは「どれだけアニメ産業の創造力を高められる?」のコラムで、このアニメが市場に媚びたキャラクターで安っぽい仕掛けを利用していると述べていた。私が話した他のアニメファンの意見と似ています。
では一体何がこのアニメの成功に寄与したのでしょうか?
回答 ;
”涼宮ハルヒの憂鬱”のTVアニメシリーズは、日本で放映され始めてから3ヶ月で世界的なセンセーションと化した。このアニメへの関心の高まりは、秋葉原中の本屋で谷川流の原作小説が売る切れてしまう原因となった。キャッチーなエンディング曲のCDは、あっという間にベストセラー商品となり、エンディングアニメーションもストップモーション・ガンダム・アニメでパロディ化された。そして今、このアニメキャラクターを基にした、多数のファンにより描かれたパロディ同人誌が続出している。英語圏のアニメファンコミュニティでは、このアニメは熱い関心と崇拝の的だ。
このアニメへの私の個人的な反応は様々です。議論の余地も無くこのアニメは感動レベルのアニメーション品質と好ましいキャラクターを見せています。美術デザインと色彩は、明るくて魅力的です。オープニングとエンディングは共にずば抜けた作画で描かれ、視聴者を飽きさせない。エネルギッシュな雰囲気と多彩な登場人物は、このアニメを活き活きとさせ観る事を楽しくさせています。しかし、物語の中核の謎を維持する為に、視聴者には登場人物の思考や動機に対する洞察を極僅かしか与えられない。イルリバーシブル、モメント、パルプフィクションの様な時間軸を前後させる映画の物語の進展は、緊張を高めたり、知らせたい予備知識を視聴者に与えたりする為に、慎重に構成されています。ところが、このアニメではこれらの目的のどちらも達成されていません。登場人物達を紹介する前に、いきなり話の真ん中で視聴者が冗談を「得た」後に、新しい登場人物達を紹介する仕掛けは面白いのですが、シリーズが進んでいく内で、時間の流れを遡るエピソードは文字通り物語が後退している様に思えます。
一旦、登場人物の個性と相互関係が確立していれば、突然の時間の後退は単に気を散らされるだけではなく、明確な性格描写と相互関係から、表面的なモノに移るというのは、逆効果ではないかと感じます。序盤の出来事がシリーズ終盤で本当の意味を持つ様になるというのは、つかの間のひらめきを生みますが、混乱も生まれてしまいます。何故なら、このアニメは序盤の出来事が物語りの終盤で登場人物達と彼らの関係にどんな影響を及ばしたかについて説明できていないのです。支離滅裂なシナリオ構成の為、次々に明らかなになっていく物語の展開という感覚が欠如しています。それぞれのエピソードがカプセルに包まれている感じで、視聴者には登場人物達が進展していく感覚が決して得られない。私達は彼らが変わって行くのを見ていない。ただ、彼らが変わったのを見せられただけ。非常に劇的であるべき主要な出来事は孤立してしまい、結局無意味に感じられます。何故なら、それらが前後関係を無視して配置され、未来へのそれらの影響が決して説明されないのだから。視聴者に登場人物を紹介してから 登場人物達が重要な物事の本質が露呈する瞬間に遭遇している場面を表現して、登場人物達がどう反応し成長していくかを視聴者に見せてあげ、視聴者に登場人物達へ感情移入させてあげるのではなく、このアニメは物語の要素を視聴者へランダムに落としていくだけです。パズルのピースを組み立てる事は楽しいかもしれませんが、その過程ではどんな発見、共感、驚きといった感覚も排除されてしまいます。
さらに、涼宮ハルヒは小泉イツキの事を謎の転校生というステレオタイプに決め付けるが、そもそもこのアニメの全てのメインキャラクターは多かれ少なかれステレオタイプなのだ。ハルヒは私達がこれまで見てきた、フルメタの千鳥かなめ、るろ剣の神谷薫、あずまんが大王の滝野トモなどの、気が短く積極的なヒロインだ。キョンは日常アニメの典型的な受身の男性主人公。彼はトゥーハートの藤田ヒロユキ、ラムネの友坂ケンジに似ている。ユキはナデシコのルリ、エヴァの綾波、ハピレスの如月ニノマイ風味の内向的なロボ娘だ。朝比奈みくるは、藍より青しの水無月タエコ、まほろの安藤ミナワに良く似た、気が弱くて直ぐに恥ずかしがるドジっ娘だ。その登場人物達は面白くて愉快だが、目新しいものではない。
私はネタばれという危険を冒すつもりありませんが、シリーズ最終回が思いほのか常套的だったので、いささか期待はずれであり、いやむしろ、このアニメの主要テーマのひとつと矛盾すらしているのではと漠然と述べなければなりません。涼宮ハルヒが本当に望んでいたものが、実際には彼女が明確に欲しいと考えていたものでは無かったというのを知った時はちょっとガッカリしてしまいます。小泉がシリーズを通して予測している様な特定の驚異は不意に訪れたりしませんが、ハルヒの動機や欲望がシリーズを通してほんの僅かしか究明されないので、ラストの驚異は幾分ハルヒの柄に合ってない感じがします。
”涼宮ハルヒの憂鬱”がアニメのステレオタイプや出回っているパロディと同じくらい多くのお約束に依存しているにも関わらず、このアニメは上手くいっている。願望を満たしてくれるので、日本の視聴者はこのシリーズを楽しんだと私は聞いた。ハルヒやキョン、みくる、ユキ、イツキと共有する高校生活は、日本の視聴者が楽しみたかったと願う牧歌的で思いで深い青春時代なのだ。さらに、世界中の視聴者がハルヒと友達になりたいと願っていると私は想像できる、何故なら彼女は率直で外交的で、そのうえ現実ではお目にかかれないほど厚かましいのだから。キョンが気付くとしている不条理な状況への随時行う解説とハルヒの振る舞いは、エクセルサーガやマイアミガンズ、県立地球防衛軍、最終教師の様な喜劇アニメで長年使われていた手法への一種のパロディです。しかし、”涼宮ハルヒの憂鬱”では、視覚ネタよりはむしろ、対話によってそのパロディを伝えている。それは、それらをより明白に、一見画期的にしている。
”涼宮ハルヒの憂鬱”は、視聴者にウインクし何か珍しくて非凡な発見をした様な感じにさせる、エネルギッシュで鮮やかなアニメ番組です。
まさしく視聴者をSOS団の姿の見えない6人目のメンバーにしてしまう為、このアニメに巻き込まれもします。私は、このアニメが良くできていると思いますが、大傑作かどうかは個々の個人的趣向の問題です。登場人物に感情移入しているか共感したいと望む視聴者は、このアニメに容易に取り込まれていくでしょう。私の様な自分自身を登場人物に重ね合わせたりしない視聴者は、このアニメを客観的に観察しても楽しめますが、大傑作とはなりません。人気と品質は、必ずしも一致しないものです。 ”涼宮ハルヒの憂鬱”アニメシリーズの場合、その差は紙一重です。しかし、私は技術的に卓越した品質よりも、わずかに人気の方が高いと思うのです。私は”涼宮ハルヒの憂鬱”へのファンの反応は、アニメーションの技術的な特徴の批評よりも、視聴者がどう解釈をしてこのアニメを理解したかに基づいていると思います。そして、それはアニメに対する全く理にかなった反応です。

涼宮ハルヒの憂鬱 1 通常版 | |
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ASK JHONネタは
ここ↓とかぶってますよ。
http://www4.ocn.ne.jp/~tmf00a/ASKJOHN.htm
こっちのほうは本人に了解を得てやってたりしますし。
そこの訳者が翻訳権を取得していたり、
JOHN氏が了解無しの翻訳を禁止してるのならわかりますが…。
あと、JHONではなくJOHNだと思います。
別に良いんでない?
公式的な見解が出ているわけで
>と、ここまで読まれた方の中には、こう思う人もいることでしょう。勝手に載せちゃっていいのか、と
>いいんです。この子たちの父親からOKを貰いました
>会社のものだからお金とかとっちゃだめだよ
>社のウェブサイトにリンクははるんだよ
そんなものは知らん
著作権者など無視で勝手にやるサイトなんだと言うなら
それはそれなんだろうけど
Johnのこの記事もまさにソレw
冷静、かつ的確だ。
確かに言ってることは間違っちゃいないと思う